直島新美術館プレトーク第一弾
「個々の施設から美術館群へ:ベネッセアートサイト直島のこれまでとこれから」
-
index
ディスカッション―それぞれのトークを受けて
-
三木:
皆さん、どうもありがとうございました。逢坂さんには、80年代から90年代にかけて、美術館の歴史的な発展を背景として、その中でベネッセアートサイト直島の特徴についてお話しいただきました。また、倉方さんからは、安藤忠雄という建築家が直島に関わることで、建築に対する考え方をどのように変えていったかというお話が聞けたと思います。そして、橋本さんは、近代の先例を通して、個人の思いが作品に対して新しい文脈や鑑賞の場をつくるということがベネッセアートサイト直島にも通じるとお話しくださいました。
3名のお話のなかで、「地域というコンテクスト」、「幸福な出会い」、「けん引者の存在」等々、いくつかのキーワードが出てきたと思います。まず、「地域というコンテクスト」という観点からいえば、ベネッセアートサイト直島がこれだけの形になってきた背景として、この直島という場所が、海でつながる交流の場であり、かつ経済的基盤もしっかりしていたことがあると思います。また、香川県では、50年代から60年代にかけて丹下健三による建築、つまりモダン建築の流れがあり、60年代末からイサム・ノグチが香川県の牟礼に住まいとアトリエを構えていました。そして直島においても、1970年という早い時期から石井和紘の建築があったのは特筆すべきことだと思います。そして、「幸福な出会い」については、福武さんと安藤さんの出会いもそうなのですが、そもそも80年代に直島の当時の町長と福武書店の創業者との出会いがなければ、直島での活動は始まらなかったわけなので、こちらも大切な「幸福な出会い」だと思います。「けん引者の存在」については、ベネッセホールディングスの本社がある岡山県は、倉敷の大原家を筆頭として、企業人による文化への貢献が特徴的なこととして挙げられると思います。橋本さん、現代における企業人たちの文化支援についてうかがえたらと思います。橋本:
現在「瀬戸内デザイン会議」という組織体があり、大原美術館理事長の大原あかねさんをはじめ、デザイナーから実業家までいろいろな方が集まり、瀬戸内エリアでどのような文化活動を行っていけばいいのかをテーマに、会議を重ねています。大原家の本拠地である倉敷という地名は、もともと「倉敷地」、あるいは倉所、倉町とも呼ばれた、かつて日本各地にあった施設の名称です。これ以外にも博多、桑名、淀、大津、敦賀など港町の多くが、倉敷地を起源としています。たまたま岡山県の倉敷だけ、それが地名として残っているのです。そして倉敷地では、土地に対する支配権が輻輳していました。その地の領主権力は、倉敷地にも当然及んでいます。しかし倉敷地で働く人々の多くは、領主に仕えるのではなく、自由民として暮らし、あるいは彼ら自身が小領主になっていきました。つまり倉敷地には、既存の領主権力とそこに属さない人々とが、混在していたのです。そのため倉敷地では、領主の支配権は弱まる一方、住民の自治権は強まり、大坂・堺に代表されるような自治都市になっていく傾向がありました。そういう自治の意識が、もしかしたら現代まで残っているのかもしれません。それに瀬戸内海は長らく日本の交通の大動脈として、海外からの船も通行していました。外に開かれ、新しい情報がどんどん入ってくる場所。人や情報が集積され、さらに各地へ拡散していく場所であったと考えるなら、この地域の実力者が文化を引き寄せるのも当然、という言い方もできるかもしれません。/p>倉方:
建築でいうと、直島には、石井和紘さんが設計された町役場や学校があります。それは当時の三宅町長の決断力によるところも大きいと思いますが、70年代から80年代にかけて、地方都市には可能性があるという、当時の時代精神を反映しているとも言えます。そして、90年代以降、ベネッセアートサイト直島においては、自然そのものに価値があると発信されてきました。そして、安藤忠雄という自然と一番縁のないような建築家に設計を依頼したのは福武總一郎さんの英断だと思います。安藤さん自身も、この場の自然に魅力を感じ、闘い続けてこられた。それぞれの時代の最先端のものが蓄積されて、今、生きた建築のアーカイブと言えるものが成立しています。そうした総体が直島の大きな建築的な価値だと思います。逢坂:
20世紀の高度経済成長のときは、地方も大都市も同じようなモデルを目指していました。しかし、21世紀になって、世界、政治、社会、教育……さまざまな課題がある中で、私たちにとってどのような空間、生活、そして生き方が大切なのか、もしくは自分たちに合っているのかを、一人一人がより考えざるを得ないような状況になっていると思います。そういう中で、今、ベネッセアートサイト直島は、オンラインの時代でありながら、対面で意思疎通がはかれるようなヒューマンスケールから出発しています。ローカルから世界、グローバルにつながっている。ローカルとグローバルを組み合わせてグローカルと言いますが、そのひとつのモデルケースとして走り続けてほしい。そのためには、そこで生活している方々の一人一人の意識と、情熱と、寛容さと、人々とつながろうとする気持ちが大切だと思います。三木:
ここで、会場からの質問を受けたいと思います。参加者:
直島は100年以上も前から、三菱マテリアルの企業城下町として発展を遂げてきました。当時の町長と福武總一郎さんの父上である哲彦さんとの出会いがあって、「アートの聖地」と呼ばれる直島になったわけですが、本日のテーマに沿っていえば、これからの直島町に期待することはありますか?逢坂:
これからつくられる新美術館への直島町の関わり方に期待したいと思います。直島の中核である本村地区に、自治体と民間が共同して、安藤さんという情熱のかたまりのような個人を媒介にして新美術館がつくられるのは、直島にとって象徴的なプロジェクトだと思います。そして、直島は、世界的によく知られている場所ではありますが、ここで育った子どもたちが、将来、島の外に出ても、また戻ってくるような、そういう直島町になるといいなと思います。倉方:
多勢に飲み込まれないアバンギャルドさがこの島にはあると思います。世界中の人が目指す場であるのに、それに甘んじないというのが直島らしさではないでしょうか。そして、今、ここを訪れる人々と地域住民とは本質的に区別がないという状態にされようとしている。これもまた尊敬すべき、新たな挑戦です。
そして、直島に流れる時間が濃厚であるということが守られていくといいなと思います。アートと向き合う時間、島民の方々との会話する時間……経験や記憶に残るものとは濃厚なものなのです。そのようなものが、この場所には常にある。そうした状態が続くことを願っています。橋本:
やはり、オーバーツーリズムには注意すべきだと思います。直島らしさを、ある種のハードルの高さも含めて保持し続けることが、結果的に持続可能性の強化につながると個人的には思っています。三木:
今日は「ベネッセアートサイト直島のこれまでとこれから」について、様々な視点から、そしてより大きな枠組みで考えるということで、逢坂さん、倉方さん、橋本さんにそれぞれお話しいただきました。
1980年代半ば、当時の直島町長と福武書店の創業者の出会いに始まって、福武總一郎名誉理事長を中心に35年以上の年月をかけ、アートの力を通して「よく生きる」とは何かを考える場所をつくり、そして、地域の人々と協働する試みを続けてきました。福武名誉理事長は、常々、300年先のことを視野にお話をされます。数百年後の未来、私たちはもう存在していなくても、ここにこういう場所をつくろうとしたという思いや精神を未来につなげていく重要性を、本日のトークやディスカッションを通して改めて感じることができました。(了)