李禹煥 後編「李禹煥――外へ向かう精神・無限への道」

欧州、そして世界へ

1968年頃から「もの派」が注目を集めるようになる一方で、「何も作らず、モノを持ってきて置くだけ」という嘲笑を含んだその呼称とともに、様々な窮屈さや強い風当たりも感じることになった李は、1971年のパリ青年ビエンナーレに、もの派のアーティストたちとともに参加し、初めて欧州に渡る。

当地におけるもの派の初の発表の場となった本展は、戦後、ニューヨークやロンドンなどに押されアートの中心地としての地位を失ったパリの復権を目指して、初代文化担当国務大臣アンドレ・マルローが創設したもので、ヴェネツィアやサンパウロ・ビエンナーレのように著名作家ではなく、若手に対象を限定して開催。その革新的な方向性は、国別展示という形式自体にも疑問を投げかけ、同年は一部、傾向別展示となっていた。

ここで、1960年代後半の世界的な社会改革運動の空気を背景に、作品制作と社会的現実を繋げることや素材の物理的実在性、空間との関係といった彫刻の基礎を捉え直すフランスの芸術運動「シュポール/シュルファス」、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ」の作家たちと知りあったことや、帰りに寄ったアメリカでバーネット・ニューマンの回顧展をみたことは、その後の創作活動において大きな刺激となった。

徐々にパリやドイツのギャラリーなどでの展覧会の機会を得て、絵画シリーズ「点より」「線より」を発表する1973年以降、多摩美術大学で教鞭をとりながら、毎年渡欧。1977年にはドイツの大型国際展であるドクメンタにドローイングを出品、1978年にはデュッセルドルフやデンマークの美術館で個展も開催し、1980年代半ば頃からは、実に年の半分あるいは3分の2を欧州で過ごすようになる。

当初はドイツでの活動が多かった李だが、徐々にフランスでの活動が増え、パリにアトリエを構えるようになっていった。ドイツでの経験は、元々ドイツ哲学を学んでいたこともあり、アートにおける人文学的発想の重要性を確認することに繋がったが、パリはとにかく居心地がよかったという。

もちろん、料理やワインが美味しいといった意味だけではなく、日本とは異なり、元々異邦人が多く集まり、マルローの掲げた「エコール・ド・パリの再興」が同地で活躍する内外の芸術家を対象としているように、国籍や言語の習得度に関係なく、様々な作家を受け入れてきた土壌も関係しているだろう。

異質な他者を取り込むことで文化の多様性や奥深さ、強度を内包させていく当地の文化政策の在りようと、李の制作に対する考え方は、どこか通じるものを感じさせなくもない。

また、1977年開館のポンピドゥー・センターだけでなく、以降パリではラ・ヴィレットやオルセー美術館が創設され、さらに脱中央集権政策の流れで地方にもボルドー現代美術館や現代美術地方基金のギャラリーなど数々の美術館やアートセンターが開設され、アーティストたちの活躍の場も一気に増えていった。

そうした環境で、「東洋的」などと固定的な見方で片づけられてしまうこともあったが、一方で早くから理解者も得た李は、1997年にはジュ・ド・ポーム国立美術館で、フランス国立美術館においてアジア人アーティスト初の個展を開催するに至っている。

興味深いことに、同展を企画した館長は、1971年のパリ青年ビエンナーレで総監督のアシスタントを務めていたダニエル・アバディであり、もう一人のアシスタントだったアルフレッド・パックマンは、2014年にヴェルサイユ宮殿で大規模な李の個展を企画することになるのだ。

なお、アメリカとは長らく距離をとってきた李だが、近年、当地ではマーケットとも連動し、もの派の評価が高まりを見せるなかで、ギャラリー等での展示も増えており、2011年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で個展が開催されている。こうして、日本、欧州、韓国、そしてアメリカと、李の活躍の場は益々拡大していった。

この間、李は欧州での創作活動において、作品の強度の必要性を感じたり、また、やり続けるうちに、否定性ではなく、古典性や持続性、色々な不純物や矛盾を包括しつつ共にあるような越境性、つまり時代を超えるかたちや見るたびに違うものを感じさせるような普遍性、生命力のようなものを意識するようになっていったという。

絵画では1970年代から80年代にかけて規則的な反復から不規則な筆致へ、1991年からの「照応」シリーズでは大きく余白を残した画面に平筆の少ないタッチになり、また2004年からは展示空間の壁に直接描くウォール・ペインティングへ、そして、彫刻は脱構築的に解体され、空間のあちこちに散らばり、別々のもの同士の関係性を活性化するようになるなど様々な変化を見せるとともに、そのスケールも拡大していった。

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李禹煥美術館「出会いの間」(写真:山本糾)

対象を超えて

改めて、李本人にこれまでの道のりを振り返ってもらうと、否定性を見出しにくい現代とは異なり、中国の文化大革命やフランスの五月革命、日本でも大学紛争などで世界中が揺れた1960年代は、既存のシステムや価値観に対する否定性の時代であり、それを力やバネに出来る時代に生まれ、描くことや作ることに対する拒絶を踏まえて出発出来たことが大きかったという。

大の男は学問や政治など大きなことをやるべきだと言われて育ったうえ、ずっと文学に興味があったので美術は学んだこともなく、絵描きなどあり得ないと思っていたという李。現実社会との関わりを求めて社会運動に関わったり、音楽にコンプレックスをもったりと、こんなはずではない、別のものがあるはずだとずっと思いながらも美術に関わり続ける。

だが、長い時間をかけて、視覚芸術は五感を使う、他の感覚にも関係するものだと理解するようになる。また、若い時に一貫性も筋道もなく紆余曲折で行ったり来たり、遊び半分面白半分でいろいろやった結果、やっと十数年前に、ああ、これで良かったのかと思えるようになったという。

常に「外を求めてきた」という、その道程は、他者として生きてきた歩みでもあり、困難や苦しみを伴いつつも既存の見方やスタンスを超えたところを目指す態度の獲得にも繋がっている。

「かつて日本国籍でないという理由で展覧会参加を拒否されるなど日本では侵入者、韓国では逃亡者として扱われ、どっちにも行けない。自分の生きる道を探すために欧州に行ったが、そこでも有名になるとアジア人だと言われる。わかったのは、どこにも僕の居場所はないということ。そのうち、一種のマイノリティを肯定的かつダイナミックに活かす方向で考えられないか。どこにも属していないのではなく、どこにも属していると捉えることはできないか、と考えるようになった。特定の何かに属すべきという考え方はやめよう。そう思ったことで二重性や三重性というか、それが身に付いていった」と李は語っている。

さらに、

「宗教はもっていないが、やっぱりいろんなものと共に在るという考えはある。日本も韓国もアニミスティック(精霊崇拝的)というか、生物も無生物もいろんなものが共にある、そういう発想が旅行や仕事で走り回っているうちに少しずつ身について、特定の民族だの国家だの、そういう小さなことに縛られず、しかし、そういうものを引き入れながら周りと共にあるという考えが身についていった」

直島の《無限門》

2020年4月、コロナ禍で緊急事態宣言が発令されるなか、李禹煥はメッセージを出した*3。そこでは、現代のグローバリズムの画一性や自国中心主義、個人の放任主義の無謀さと危険性、それを引き起こした外部を認めない閉じた内部の構築と拡大を志向する近代的な意志の問題を指摘している。

また、コロナ禍によるAIやロボットの飛躍的活躍が身体性の軽視を招く可能性を危惧するとともに、人類は自然と対話することで、生きた世界の関係性に目覚め、人間の外部性の回復や文明再興に繋げることが出来るのかを問うた。

それを眼にしたとき、筆者には、その前年に直島の李禹煥美術館敷地内の海岸側に完成した、世界的にも李の最も重要な屋外恒久設置彫刻のひとつとなる《無限門》が、そうしたことを人類に思い出させるためのひとつの装置のようなものに思えた。また、本作を含む彼の世界初の美術館が直島の地に出来たことも、ある種の必然ではないか...、そのように感じられたのだ。

*3「李禹煥よりメッセージ」、2020年4月22日、SCAI THE BATHHOUSEウェブサイト

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《無限門》2019(写真:山本糾)

《無限門》は、長い旅の果てにこの場所に辿り着いた人々の記憶に残るものとして、李が、山奥の自身の故郷とどこか重なるという山間に建てられた洞窟のような美術館の屋外の自然のなかで、彼が30余年前に見た虹の古い記憶をもとに構想した屋外彫刻である。

地面に敷かれた長さ25メートル、幅3メートルのステンレス板と、同じ長さ・幅、素材のアーチ、それを支えるように置かれた2つの自然石という構成が緊張と均衡をその場に生み出し、まるで海と陸、大自然と美術館空間を繋ぐように、谷間一帯の空気の動きを活性化させる。訪れる人々が周囲を歩いたり門をくぐることで、身体感覚が呼び覚まされ、大地と繋がり、宇宙の無限性を感じたり新しい世界と出会うことが意図されたものだ。

それは、まるで何度も橋を渡り、門をくぐるように、外へ外へと遊牧民のように移動し、異なる文化と対話し、世界と関わり合い、様々な異なるものの狭間における緊張や均衡、相互関係のなかでダイナミックな力を獲得してきた李の生き方や、中央や国家とは距離をとる一方で、海を通して外に開かれることで生きる道を見つけてきた瀬戸内海の島々の在り方をも反映するかのように、自然の中にそびえ立っている。

青い空や海へと開かれた門をくぐり、マスクを外して風を感じながら大きく息をすると、そのたびに、私たちが大いなる自然の一部として生きていることを実感するとともに、人生も島も地域も何度でも再生が可能なことを再認識するのは筆者だけではないだろう。

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2010年、直島にて美術館準備中の李禹煥

本稿は作家本人からの聴き取り等を基に構成。註の記載のない李の言葉は本聴き取りおよび以下の参考文献より引用。
その他参考文献:
李禹煥「照応」、崔玉憧「年譜」、図録『李禹煥美術館』 公益財団法人福武財団発行 2015年
「李禹煥オーラル・ヒストリー」(インタヴュアー:中井康之, 加治屋健司)日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ、公開2009年7月20日、更新2012年12月23日
「2010年6月4日李禹煥美術館 アーティスト・トーク記録資料」(福武財団内部資料)
李禹煥アーティストトークからみえてくるもの―"分からなさ"を受け入れるということ―」ベネッセアートサイト直島ブログ、2017年3月3日
李禹煥美術館 アーティストトーク――他者との対話」ベネッセアートサイト直島ブログ、2020年12月11日
「李禹煥インタビュー:自己と世界の無限性に出合う」ベネッセアートサイト直島広報誌、2019年10月号

三木あき子みき あきこ


キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。

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