草間彌生「アートとは永遠の闘いであり、愛であり、生きることである」(前編)

桟橋で孤高に佇む《南瓜》

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草間彌生"南瓜"(写真:安斎重男)1994 ©︎YAYOI KUSAMA

2021年8月、ベネッセアートサイト直島、いや、今や直島のシンボルとも捉えられるようになった草間彌生の黄色い《南瓜》が台風で波にさらわれる映像が世界中に拡散され、国内外で大きな反響を巻き起こすことになった。

本作については、以前から台風予測にあわせて、事前に南瓜を移動させる避難措置が取られてきたが、その日は予想ルートに入っていなかったにもかかわらず、突然の強風で一瞬にして海に流されてしまった。

その後、すぐに回収され、作家を含む関係者との協議のもと、今後の新たな対策がとられることになったが*1、従来の想定をはるかに超えて益々荒ぶる自然の驚異や気候変動の深刻さ、日常の一瞬がスペクタクルになってしまうSNS時代のリアルを実感するとともに、世界中から届く、作品は大丈夫なのかと気遣う声の多さに、改めて、草間彌生という稀有な存在について、そして作品がこの場所にある意味やメッセージなどについて、過去を振り返りつつ考えてみる必要があるように思えた。

黄色い《南瓜》は、1992年に開館した安藤忠雄設計によるホテルと美術館が一体化したベネッセハウス ミュージアムで、1994年に周囲の自然環境のなかに作品を設置する野外展「Open Air'94 "Out of Bounds"―海景の中の現代美術展―」が開催された際に、制作設置されたものだ*2。草間は同年から野外彫刻に取り組んでおり、本作は初めて野外での展示を念頭につくられた作品群のひとつであり、かつ高さ 2 メートル、幅 2.5 メートルというサイズは、それまでに制作された南瓜彫刻のなかで最大級であった。

当初は展覧会のための仮設展示の予定だったが、会期終了後、この黄色い《南瓜》だけでなく、海の景色との結びつきのある4作品が恒久的に残されることとなり、そのことは、その後のベネッセアートサイト直島の活動における「自然と建築とアートの共生」という方向性形成に繋がっていった。

今や国内外に「アートの島」として知られるようになった直島だが、作品が設置された1990年代前半は、ベネッセアートサイト直島の黎明期であり、島民にさえあまり周知されておらず、ホテルや展示室のなかで、他に誰にも会わないこともあるほど(それはそれで大変贅沢ではあるが)、訪問者数は限られていた。どちらかというと、知る人ぞ知る的な場所であり、他に島内での食事場所自体、うどん屋が一軒だけという感じだったように記憶している。

一方、草間も、1980年代まではどちらかというとマージナルな立場と捉えられていたが、ベネッセアートサイト直島が始動した1990年頃を境に徐々に再評価の機運が高まり、遂に1993年のヴェネツィア・ビエンナーレでは日本館代表に選出されるに至っている。

そして、ベネッセアートサイト直島も、また草間を追うように、福武書店からベネッセコーポレーションへの社名変更を記念して、続く1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに進出。当地で展覧会を開催するとともにベネッセ賞を発足・継続することで徐々に国際的なネットワークと世界のアートシーンでの知名度を高めていくことになった。

つまり、ベネッセアートサイト直島の発展も草間の世界的評価と活躍も、この頃から本格化していったわけである。

海に突き出た古い桟橋の先端、陸と海の境界で孤高に佇む黄色い《南瓜》の姿は、タイトルの「Out of Bounds」 に込められた、既存の概念、制度などの境界を越えて多種多様な価値観と出合うという意図を反映しているが、また、様々な境界(エッジ)の拡大という現代アートの本質を体現するとともに、草間自身の姿ともどこか重なる。

それは、自らのトラウマを創造に転化し、様々な障害に抗いながら新しい地平を自ら切り開いてきた草間の生き様をも反映するとともに、異なる生き方や価値観について極東の離島から世界に発信してきたベネッセアートサイト直島の存在自体をも象徴しているようだ。

*1. 再設置の日程は2022年6月現在協議中。
*2. 南條史生と秋元雄史のキュレーションで、11人/組(大竹伸朗、岡﨑乾二郎、片瀬和夫、草間彌生、小山 穂太郎、杉本博司、テクノクラート、中野渡尉隆、PH スタジオ、 枀の木タクヤ、村上隆)が参加。

新たな地平ニューヨークでの挑戦

1929年、長野県松本市で種苗業、採種場を営む裕福な家庭に生まれた草間彌生が、絵を描くようになったのは幼少期からである。草間作品と言えば、一面を覆う水玉や網目が特徴的だが、それらは子供時代の体験から生まれたものであり、既にその頃の絵に要素が見て取れる。

「わたしが絵をかいたのは、芸術家になるためでなくって、困った病気、不安神経症、強迫神経症や偏執狂が原因。同じ映像がいくつもいくつも押しよせてくる恐怖、小学校の校舎の北側の壁のコンクリートの暗がりにいつも常動反復しながら一面に、壁の平面を這って増殖する白いブツブツが見えると、この魂が、フワフワと体からでていってしまう。そのこと、スケッチブックに、いつもかいていた。描いて、しっかり見てみないと、わたしは失神してしまう3」。

戦前の保守的な家庭で、複雑な家庭環境に悩み、幻覚や幻聴から逃れるため、画面全体を覆い、埋め尽くすように描くようになった草間にとって、作品を作ることは、トラウマを克服する術であり、生きることと同義語であったと言えるだろう。

高等女学校を出た草間は、終戦後に京都の美術学校に編入し日本画の技術を身につけるが、結局、実家に戻り1950年以降、松本や東京などでも作品を発表するようになる。抱えたトラウマの一方で、美術評論家の瀧口修造が個展パンフレット用に寄稿文を書いたり、展覧会を企画するなど、早くからその才能は突出したものがあり、理解者も得ていたようだ。

だが、草間の才能をさらに開花させたのは、ニューヨークである。1957年シアトルでの個展を期に渡米し、その後ニューヨークを拠点にすることになるが、以前より、戦後のアート界の最先端はパリではなくニューヨークだと感じ、何とかニューヨークに行こうと、ジョージア・オキーフに自ら手紙を書くなどしていたという。

実際、1964年のヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ人アーティストのロバート・ラウシェンバーグが金獅子賞を受賞したことはアートの中心が欧州からアメリカに移行したことを顕在化したわけだが、草間はものを創る才能だけでなく時代の流れを読み取る力とそれを手繰り寄せる能力にも長けていたようだ。

行き着いたニューヨークは、女性が単独で個展を開くことさえ困難な時代で、かつ日本人であるにもかかわらず、草間は1959年に当地で初の個展を開催している。その際に発表した、画面を覆うオール・オーヴァー的で奥行きのない平面性をもった大画面の絵画《無限の網》は、抽象表現主義が下火となり、ミニマリズムやカラーフィールド・ペインティング、ポップアートなど新しい表現が台頭しつつあった当地のアート界で評価され、ハーバード・リードら著名な批評家に注目されたり、ドナルド・ジャッドに作品を購入されたりもしている。

彼だけでなく、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、アンディ・ウォーホル、クレス・オルデンバーグら時代の最先端を走る才能が群雄割拠していた時代である。1998年の台北ビエンナーレ等の準備のために過去に何度か直接話をする機会を得た際、草間は自分の表現を他のアーティストたちに「盗られた」と何度となく口にしていた。その真偽のほどは別として、それだけ次なる先駆的表現を誰が打ち出すか、しのぎを削る現場に彼女は身を置いていたのである。

1961年には布製男根状の詰め物をいくつも反復、増殖させて椅子やベッドやボートに貼り付けたソフト・スカルプチュアに取り組むようになる。そうした「アキュミュレーション(集積)」は部屋全体やエンヴァイラメントに拡がり、また鏡の使用で無限に強化されていった。

その鏡の効果を用いた《無限の鏡の間-ファルスの原野》以降、草間はミラールームを何度も制作し、代表作となっていった。このように、男根の形で対象を埋めつくす作品を繰り返し作ることで、彼女は男根への恐怖感や性への嫌悪感を克服していく。

*3. 谷川渥「増殖の幻魔」『美術手帖』1993年6月 P67

再び日本へ。多様化する表現、そして再評価へ。

さらに、そうしたより広い環境へと拡大するイメージのもうひとつの方向性にあったのが、1960年代より路上などで展開することになるハプニングだ。特に1967年から1970年に入るまでの間には、自然に帰ろう、人間性を取り戻そうというヒッピー・ムーブメント、ベトナム反戦運動の高まりや資本主義経済への批判などを背景に、裸に水玉のボディ・ペインティングを施したり、草間デザインのファッションに身を包んだモデルたちによるデモやファッションショーが室内や街頭で大量に繰り広げられることとなった。

さらに、彼女はクサマ・ドレスやテキスタイルも手掛け、それらは全米のデパートやブティックで販売され、1969年には自身のブティックも開店。1968年には自作自演の映画も制作するなど旺盛な活動を展開したが、ハプニングでは警察を呼ばれたり、メディアにゴシップ的に扱われ、バッシングを受けることになる。

その後、親しくしていたジョゼフ・コーネルが亡くなり、草間は1973年に体調を崩し日本に帰国。彼女は、1977年以降病室で暮らしながらも制作を続けることになる。

この時期の作品は死が色濃く影響していたり、抒情的であったり内省的な方向がしばしば指摘されているが、体調不良などの理由で大型の作品が作れなかったことは、自身の作品イメージを量産することができるセラミックスやパステル、コラージュ、シルク・スクリーンの制作や、1978年の『マンハッタン自殺未遂常習犯』に代表される小説や詩など、新しいメディアに取り組むことに繋がる。

また、1980年初頭よりフジテレビギャラリーなどで作品を発表するようになるが、文学作品などで評価を得たものの、美術館からはほとんど注目されず、アートシーンの表舞台からは忘れ去られていたという。

そうした草間の再評価のきっかけとされるのが、1989年、ニューヨークに設立された国際現代芸術センターでの大規模な回顧展である。(後編に続く)

三木あき子みき あきこ


キュレーター、ベネッセアートサイト直島インターナショナルアーティスティックディレクター。パリのパレ・ド・トーキョーのチーフ/シニア・キュレーターやヨコハマトリエンナーレのコ・ディレクターなどを歴任。90年代より、ロンドンのバービカンアートギャラリー、台北市立美術館、ソウル国立現代美術館、森美術館、横浜美術館、京都市京セラ美術館など国内外の主要美術館で、荒木経惟や村上隆、杉本博司ら日本を代表するアーティストの大規模な個展など多くの企画を手掛ける。

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